私の両親が戦前から南品川で営んでいた自転車商を戦後東糀谷に移転して再開した為この東糀谷の地に根を下すようになりました。私が小学校の頃の日本は戦後の何も無い時代でまだ米国の占領下にあり マッカーサー元帥が駐留軍総司令官として君臨しておりました。
その後元帥が解任され米国に帰還する時には早朝に羽田に向かう産業道路には沢山の日本人が並び今か今かとマッカーサーの車列が来るのを待っておりますとMPと書いた白いヘルメットを被った数台のハーレーの白バイを先頭に中が見えない様に窓を黒く塗った黒塗りの大きなセダンが3台当時としてはかなり速いスピードで羽田空港に向かって通過して行きました。歴史の一幕を垣間見た一瞬でした。

又、後日サンフランシスコ シールズ という野球チームと一緒にヤンキースのジョー・ディマジョーとの新婚旅行でマリリン・モンローが来日し羽田空港から帝国ホテルまでオープンカーでパレードしました。そんな場所羽田は空の玄関口と言われておりました。

こんな時代にHONDAが自転車に取付けて走るCub を発売し、自転車で10kmでも20km でも走って商売をしたり、通勤ていた人達に大好評で売れました。これが原付ー原動機付き2輪車の始まりです。 私の親父は東京駅前の本田技研まで行き段ボールの箱に入ったCubを担いで電車で店まで運び、自転車に取付けて販売していた事を思い出します。赤い丸いタンクと白いケースカバーのCub です。
それから暫くしてSuper Cub が発売され一気にHONDAが日本中に溢れました。

そして私が20歳位の時CB72に乗っている時期に、ホンダの問屋から突然電話で今日の夕方大手町のサンケイホールに本田宗一郎の話を聞きに来てくれと言われたので行ってみました。サンケイホールの周囲はバイクで埋まり、大きな会場は若いバイク屋で一杯になっておりました。
舞台の右袖から白いブレザーとズボン、真っ赤なシャツの本田社長が現れると大拍手!
そして話始めました。

まず話の枕はある学校の先生に魂を入れてオートバイを作っていないから、カミナリ族が出てくるんだと怒られたが俺はそうじゃね〜よ、学校の先生が魂を込めて生徒の教育をしないから若者がカミナリ族になるんだと言ってやったよ、俺達は魂を込めてオートバイを作っているんだと一発、大拍手! 聞いてる我々を引き込むと今度はアメリカでは自動車は質草にならない?がオートバイは質草になるんだ? ? ーこれは判らなかった。

今、日本はモータリゼーションとか言って、これからは自動車の時代になると皆んな言っているし、新聞でも言われているがそうではない、アメリカでは 自動車は2人に1台の時代になっているが オートバイもどんどん売れているし、自転車もどんどん売れているんだ。これからはそういう時代になるぞ! 皆んなオートバイ屋をやめるなよ、これからオートバイはもっともっと売れる時代が来る、やめてはダメだぞ。という趣旨でした。

この先見性というか、予言というか、この時の本田宗一郎の話が私がバイク屋を続けている原点となっていると考えます。どうですか、現在は自動車、バイク、自転車と全てが世界中で売れております。

もう一つ私が忘れられないのはホンダの新年会が帝国ホテルで開催された時、立食パーティーの人混みの中をかき分けて歩きながら我々販売店と握手し、オイ皆んなホンダを売ってくれよと声を掛けて歩き周り、会場の壁際にあるお寿司屋、天ぷら屋等の職人にホンダです、今日はご苦労さんですと声を掛けて歩くんです。その握手した手の大きさ、無骨さ、力強さは職人の手その物でした。